『工事現場は生きた教材であり、宝の山である』
1999年7月 structure No.71
きっかけは何となく

  ―建築を目指されたきっかけは何ですか。―
井上:元々僕は電気屋になろうと思ったんですよ。早く言えばラジオやテレビの仕事をしようと思ったんですが、たまたま宮本百合子さん(日本共産党宮本顕二の奥さん)の伝記を読む機会があった。旧姓中条百合子さんは曽根・中条事務所という明治時代の設計事務所の草分け的な事務所所長のお嬢さんで、幼年期の思い出を書いていたのですが、建築家 というのはなかなかおもしろそうだなと思ったわけです。そして大学は建築科に入ったんですが、大学在学5年で講義に出たのがおよそ50〜60時間で、あとはラジオ屋を始めとしていろいろなアルバイトや、そのほかで過ごしました。

  ―構造に進まれたのはなぜですか。―
井上:大学卒業後戸田建設の設計部に入ったんですが、当時の設計課長が新入社員を前に して出身校を次々と聞いていって、僕の番になったので京都大学ですと答えると、「それじ ゃおまえさん構造をやれ」といわれまして、「構造はかなわん」と、のどまで出てきたんですが母校の名誉というのがちらっと頭をかすめたんでそれが言えず、ハイと答えたんですよ。
建築の実務知識は施工図で徹底的に

  ―最初は現場に出たんですか。―
井上:いや、最初から設計部だったんですが、当時の戸田建設の新入社員教育は今考えて も理想的なものでしたね。というのは設計部の新入社員はすべて施工図室に配属されて、施工図を書かされるわけですが、その頃に着工したばかりの何か所かの現場の次席つまり副所長が施工図室に集められ、その下に新入社員がついて施工図を書くわけです。最初に躯体図を書き、次にディテールを書くんですが、新宮さんという室長は曽根・中条事務所の使い走りの小僧さんから出発した人で、実に事務に詳しい人でした。例えばどこかのチームの人が建具の図面を書いているのを見て「さあ皆さん集まってください。建具の話をしましょう」といって、建具について実に細かく説明してくれるんですよ。また、何日かすると「さあ皆さん今日は防水の話です」といってさらさらと黒板に図や絵を描きながら防水の話をしてくれるんですが、あまり大学で勉強をしていなかった僕にとって乾いた砂に水がしみこむように建築の実務知識が頭の中に入ってきたんです。これは構造屋になってからも意匠屋さんと打合せをするときに、そのときの教育がものすごく役に立ちました。 施工図が一とおりまとまったころ、ちょうど丹下さんの設計した都庁舎を戸田建設がやることになりまして、現場から図面屋を一人よこしてくれと言う注文が設計課にきたんです。その図面屋は図面がうまい必要はないが、心臓が強くて物怖じせずに設計事務所や役所の人間と交渉できる人をよこしてくれと言うことで僕が行かされたんです。現場では新宮教室の教えに従って施工図を書いていたんですが、丹下事務所の設計図はプレキャストの手すり一つとっても非常に難しく書いてあるわけですよ。早く言えば施工の難易を考えてないんですね。僕はこんなことをしなくてもすむと思ったし、このままではきちんと施工で きるかどうかも分からない。だから手すりの支柱にかかる応力を計算して、支柱の大きさやアンカーボルトの大きさを決め、施工を長くやっている現場の人にこういう方法はどう でしょうかと何度も相談したうえで、施工の容易な簡単な方法を図面化しました。それを都庁の監督室と、丹下事務所から出向していた大谷幸夫さんに承認をもらった。これで施工がだいぶ楽になり、現場もだいぶ儲かって喜ばれました(笑)。そんなこんながあって現場にきていろいろな経験ができ、

「現場は宝の山で、その気になればいろんな勉強ができる」
と思いました。だから設計者は図面を書きっぱなしではなく現場に出て、いかに自分の書いた図面に無駄や納まりの悪さがあるかを勉強すべきです。それから、現場の職人さんとは徹底的に話し合って、押しつけるのではなく納得して仕事をしてもらうようにしないと、まちがいを起こしたり、仕事がスムーズに進まなかったりします。

  ―事務所設立の経緯は―
井上:当時の給料は手取りで9000円ぐらいだったので一人で暮らすことはできるが、僕は就職して2年目に結婚して次の年に双子が生まれたのでアルバイトをしないとやっていけなかった。しかし、その前から中条百合子さんの影響で設計事務所を始めたいと思っていたのでアルバイトをやって経験を積み、ほかの人達よりも早く建築を覚えようとがんばっ ていました。3年で戸田建設をやめ、大学の大先輩の岡本剛さんの構造事務所に移ってからもアルバイトは続けました。岡本事務所には4年間お世話になったが、やめる頃には同時に6件ぐらい仕事を抱えていて、そのうえ夜中に帰ってからもアルバイトの仕事を3〜4件並行 してやっていたので寝る時間が3時間ぐらいしかなかった。それでも仕事を数多くやって経験を積み、早く一人前になろうという意欲があったので仕事はどんどん引き受けました。そういう生活をして事務所を開設したら、最初に付いたお客さんが京浜倉庫という倉庫会社だったのです。
最初の作品はPC造無柱倉庫

  ―思い出に残る作品だったのでしょうか。―
井上:その当時の設計屋さんの意識では、倉庫建物といえば意匠的に凝ることはなく、躯体ができれば終わったようなものとの思いが強かったのです。柱の数は少ないに越したことはないので、私は事務所の処女作品としては壁構造で無柱倉庫を作ろうと思いました。全体のプランが50m×70mなので70mを5ツ割、50mを2ツ割にしてハモニカみたいなプランにしました。そして15m方向にプレキャスト・ポストテンションの梁をかけ渡してスラブ後打ち工法を考えました。設計荷重が2、3階で1.5t/平方メートル、4階が1.2t/平方メートル、なので同じ梁を使って梁の間隔を変えて荷重の違いに対処しました。工事はまず壁を4階床の高さまで打ち上げ、壁の途中に梁型を出しておいて一方では短辺方向の壁のTOPにレールを敷いて門形クレーンを走らせて、2階梁、3階梁、4階梁というふうに下階から順にPC梁を落していった。屋根はシャーレを使い、(僕の師匠の岡本剛さんはシャーレの先駆者だった)15mスパンの中央では厚み9cm、シングル配筋となっています。この"PC造無柱倉庫"は当時(1963年)、何種類もの雑誌や業界紙で報道されたので、それ以来倉庫業界で僕の名前が売れてきて大きな倉庫や物流センターなどの仕事をずっと続けてきました。
一生懸命真面目にやっていればいざというときには神様が助けてくれる

  ―事務所経営の方針とか信条などをお聞かせください。―
井上:現在のことはよく分からないが、昔は構造屋さんも設備屋さんも一般的に言って、その物腰や態度にとかく下請け根性みたいなものが現れがちだったのです。それでたとえ小人数の事務所であっても技術屋としては一流だという誇りを持って、どんな時でも大きく胸を張って歩くようにと、絶えず事務所の人に言い続けてきました。それと、一生懸命真面目にやっていればいざというときには神様が助けてくれるというのが基本哲学です。いわゆる営業活動は全然やっていませんが、仕事が途切れそうで不安になってくると奇妙に次の仕事がくる。平成7年になって倉庫業界が一斉に設備投資を控えて、それまで継続してあった倉庫の仕事がなくなってしまった。困ったなと思ったときに、たまたま知り合ったお寺の住職から新伽藍の設計依頼を受けて仕事を続けることができたので、神様だけでなく佛様も助けてく れるということにしましたが(笑)。 それから自分で設計した建物は最後まで現場を宝の山と心得て、また、自分の教訓の出所と考えて一生懸命やらないといけない。現場を見ない人間は設計屋と認めないと言いたい。
現在の鉄筋コンクリートの寿命は短かすぎる。しっかりしたコンクリートは劣化しない

  ―ところで、今お話に出た新伽藍に200年の耐久性を保証されたとか。―
井上:僕はかねがね現在の日本の鉄筋コンクリートの寿命は短かすぎると主張してきました。 水セメント比50%以下、スランプ12cmのコンクリートをバイブレーターを使って密に打設し、鉄筋のかぶり厚をしっかりとれば、100年でも200年でも劣化するはずがない。

   ―その辺のお話をもう少ししていただけませんか。―
井上:要するに鉄筋コンクリート造というものは、良質のセメントと、塩分、泥分など有害物質を含まない良質の骨材を、水セメント比もスランプも少なく繰り上げて、しっかり締め固めて作ればよいだけの話。それから大事なのは鉄筋のかぶり厚さ。私の事務所ではスラブ以外の地上部分のかぶり厚さは最小40mmとしています。壁厚、スラブ厚は最低で250mmを守っています。現場開始時にゼネコン社員と職人さん達を集めて充分に時間をかけて説明すれば皆さん納得してくださる。この説明会の時に、出席者の技術者魂や職人気質を呼び醒ますことが必要なんですが、これに成功すれば現場船体の意気込みが変わってきて、監理者としては非常に仕事がしやすくなるし、立派な建物ができあがる。

  ―構造性能評価法の提案―
 「性能評価などできるわけがない」というのが建設業界の通念ですが、やる気になればでき ます。それも単に「この建物は震度7まで耐えられる」といった簡単なものではありません。材 料・工法すべてにわたり、綿密に管理し、評価すれば、実効力のある性能保証ができるのです。
 建物の強度・品質というものは、いろいろな要素の掛け算(積)で決まります。現在の建築基準法(新耐震)で建物を造ろうとするとき、先ず構造計画があり、構造計算、次いで構造図の作成、それらに基づく現場でのコンクリート強度、鉄筋の強度・本数、鉄骨の数量と溶接精度などの要素が考えられます。
今仮りに
1. 構造計画
2. 構造計算
3. 構造図の作成
4. コンクリート強度
5. 鉄筋の強度と加工組立て方
6. 鉄骨の加工精度と溶接制度
の6つの要素で構成されると仮定します。現場での施工工程を考えれば、別表に示すようにもっともっと多くの要素に分けられますが、ここでは性能評価の数値化の説明のための一例として 仮りに6要素としただけです。さて、各要素ごとの評価がすべて1.0であった場合、6つを掛け合わせると答えは1.0だから、これを普通の標準的な強度性能の建物とします。
 これまで官庁や民間の研究者の方々の意識の底には、これらの要素のすべてが1.0の成績で実行されているものとの大前提があったのではなかろうかと、私たち実務家は感じています。ところが実際には、そううまくはゆかない。特に現場での手造一品生産となる4・5・6の部門において技術者魂と職人気質を理解したうえでの充分な監理がされていない場合には、平均す れば0.6〜0.9ぐらいの間で施工されていると私は考えています。そうすると、トータルの成績 は1.0×1.0×1.0×0.8×0.8×0.8=0.51となり、目標性能の1/2にしかならない。
 阪神・淡路大震災で倒壊した建物の多くは、ほかの多くの要素はもちろんあるにしても、この方式による性能評価値が1.0をかなり下回っていたはずだと私は睨んでいます。逆に、この6要素がおのおの15%ずつ余裕を持って設計・施工されたとすれば、1.15×1.15×1.15×1.15× 1.15×1.15=2.31よ約2倍以上のものができます。予想震度の2倍にも耐えることができるようになるのです。
 隣り合った建物が、一方は大被害なのに、一方は無被害という霊は世界各地の地震で多く見かけられることで、素人の人達からは「なぜ?」という質問が必ず投げかけられますが、このよ うな「各工程ごとの掛け算による性能評価法」を考えれば、素人にも分りやすい説明ができるはずです。
 このように、建築の構造躯体を構成するすべての材料と各工程ごとのすべての工法に綿密な採点をしてゆけば、建築基準法や建築学会が示す性能目標値に対して1.3倍とか2.5倍とかの性能保証が可能になります。評価値が0.8とか0.6とかの場合には、工事代金の減額とか、保険料金の増額というようなことも考えられもます。

  ―最後に一言お願いします。―
井上:わが国では昔から「職人気質」とか「技術者魂」とかの言葉がよく使われてきました。しか しこの20〜30年の間、「科学、技術の進歩」という言葉におされて、何時の間にか死語と化して います。何度も繰り返しますが、手造り一品生産ではひとり1人の技術力が、技術者魂とか技術者の誇りによって造り込まれなくてはなりません。先端技術にばかり捉われて基本技術が空洞化した現状を1日も早く改めて、良い建物の性能を数値化して表現する必要があります。そ の方法については目下思案中ですが、ここでは取りあえず、構造性能のみについての数値化の試案を紹介しました。


NOTE
 建物を造るにあたって、その材料であるコンクリートに厚い情熱を持ち、設計監理のあり方についても信念を持ったお話を聞かせていただき、もの造りに対する気持ちを新たにした取材でした。
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